山口百恵と三浦友和の馴れ初めと結婚式
三浦友和と山口百恵との気になる馴れ初めは?
三浦友和と山口百恵は、1974年の5月に、東京の桜の名所としても知られている世田谷の砧公園で
CMの撮影で初めて出会いました。
スポンサーリンク
山口百恵は、初めて会った三浦友和について
青い運動着を着ていて、まるで公園で練習している選手みたいだった。と、語っていました。
1974年の9月に、三浦友和と山口百恵の二人は、映画「伊豆の踊子」で初共演。
「伊豆の踊子」は大評判となり、山口百恵の人気は沸騰し、仕事が増え、スケジュールが一杯となりました。
こちらの記事もおススメです!
⇒
山口百恵の複雑な生い立ち
ある日、山口百恵が車での移動中に寝ようとした時、三浦友和が耳元で
「眠りなさい、可哀想に。 疲れてるんでしょう」と、やさしく話しかけました。
このような言葉数は少ないものの、心やさしい男、三浦友和が、山口百恵の心を動かしたのでしょうか
翌年1975年にも、二人は映画「潮騒」で共演し、それから5年間は、毎年映画などで共演しており、
芸能界の「ゴールデンカップル」とも呼ばれるようになりました。
二人は映画でラブストーリーを演じる事が多く、リハーサルなども含めると何百回も「愛している」と言い続けた事になります。
後に二人は電話番号を交換し、恋愛感情はどんどん深まっていき、恋人関係となったといいます。
そしてついに、山口百恵は東京帝国劇場でのリサイタルで三浦友和との恋愛を明かしました。
あの有名な「恋人宣言」したのです。
当時は、スターの異性との交際はタブーと見なされていたため、この発表は非常にセンセーショナルでした。
スポンサーリンク
1980年、山口百恵が21歳の時に、三浦友和との結婚とともに、芸能界からの引退を発表しました。
こちらの記事もおススメです!
⇒
山口百恵の複雑な生い立ち
芸能界引退については、全く未練は無かったそうで、それ以降は滅多にメディアに出ることは無くなりました。
山口百恵は、芸能界で活躍することよりも、三浦友和と幸せな家庭を築く事を選んだのです。
山口百恵と三浦友和の馴れ初めについて詳しくは山口百恵の自叙伝『蒼い時』につづられています。
内容紹介
たとえスターでも、若い女性ならそっと胸の奥底にしまっておきたい思いがある。出生や生い立ち、恋や父母のこと…。結婚を前に山口百恵が綴った赤裸々な自叙伝。大ベストセラー。
「蒼い時」で読む、山口百恵と三浦友和の馴れ初め!
伝説の歌姫、山口百恵さんと結婚したことにより、
いつまでも山口百恵さんの夫としてのイメージが強かった三浦友和さん。
しかし、最近は長年のキャリアを生かし大物俳優と風格も出てきて、
山口百恵さんの名前に負けないほどになってきたような気がします。
こちらの記事もおススメです!
⇒
山口百恵の複雑な生い立ち
三浦友和さんと山口百恵さんの馴れ初めは、どのようなことだったの?
山口百恵さんの自叙伝「蒼い時」に詳しく載っていると知り調べてみました。
二人の恋人関係の発表は昭和のアイドルといえば恋愛ご法度の時代。
この発表は当時、かなり話題になっていました。
山口百恵さんが21歳の時に三浦友和と結婚と同時に引退
白いマイクをおいて去る姿を覚えている方も多いのではないでしょうか。
その後は一切、人前に出ることがない山口百恵さん。
もともと、芸能界に執着がなく、結婚して幸せな家庭を持つことが夢だったという山口百恵さん。
芸能界復帰はもうありえませんね。
こちらの記事もおススメです!
⇒
山口百恵の複雑な生い立ち
彼女が自著『蒼い時』でこの時の心境を告白しています。
相手役に抜てきされゴールデン・コンビと称された三浦友和への想い。
「いつの間にか私の目は、彼を追うようになっていた。(中略)もうすでに彼をひとりの異性として意識していた…」 山口百恵にとって、この「潮騒ロケ」こそが恋の発端で、その想いが表情に溢れ出し、ファインダー越しに語りかけたのだと思えてしかたがないのです。
三浦友和とのコンビはその後も「絶唱」「風立ちぬ」「春琴抄」と続き、女優としてもトップスターの坐へ登り詰めました。 ロケで「彼の胸に顔を埋めるシーン(中略)耳に響いてくる彼の鼓動を聞きながら、この鼓動を特別 の意識を持って聞く事のできる女性に……私がなれたら」と思ったそうです。
「秋桜」「いい日旅立ち」が歌われ始めた頃から彼女のかもし出すオーラに加え、落ち着いたしっとり感が滲んでくるようになったように思います。そして1979年の10月、大阪厚生年金ホールのリサイタルで突然、三浦友和との「恋人宣言」をして人気絶頂のまま、結婚、引退へと向かったのでした。
「女性の自立」のシンボルであった山口百恵は「栄光の職業」よりも「妻として、母としての幸せ」を躊躇なく選んだ。
その点こそが今に語り継がれる「百恵伝説」の 理由ではないのか。
日本で“山口百恵神話”は依然として続いている。
こちらの記事もおススメです!
⇒
山口百恵の複雑な生い立ち
霊南坂の教会で式を挙げる為に、クリスチャンでなかった百恵さんは忙しい中、牧師さんのもとへ何日間か通 い講義を受けたそうです。
この色内掛けの刺繍は中国の人間国宝に当たる人に刺繍して貰ったそうです。それにしても美しいし本当にお似合い、似合い過ぎます。
山口百恵と三浦友和 霊南坂教会で結婚式
1980年10月5日、日本武道館でのファイナルコンサートでは、「私のわがまま、許してくれてありがとう。幸せになります」とメッセージを言い残し、そして最後の歌唱曲となった「さよならの向う側」で堪えきれずに、涙の絶唱となってしまいました。
結婚式は1980年11月19日に赤坂の霊南坂教会
披露宴は東京プリンスホテルで招待客1800人が出席して行われました(仲人は宇津井健夫妻)。
披露宴の司会はメインが岡田真澄、サブが徳光和夫でした。
同年刊行された自叙伝『蒼い時』は、複雑な生い立ち、恋愛や性体験についても赤裸々につづられており、発売から1ヶ月で100万部を超え、12月までに200万部を超える大ベストセラーになりました。
古きよき時代、日本の母は自身のことより夫や子供を優先していた。
自身の美には目をつむり、一日中、家族のために生きていた。
そんな母になるのが百恵さんの夢で彼女はそれを実現したのですね。
引退してもなお、これだけ世間で話題になるのは、すっぱりと引退した山口百恵の生きざまが潔いからでしょう。
幸せな結婚とは決して過去を振り返らないこと。これを教訓としたいものです。
こちらの記事もおススメです!
⇒
山口百恵の複雑な生い立ち
ファンにとって、山口百恵と三浦友和の馴れ初めと結婚式は記憶に深く刻まれている
山口百恵は、これからも共に永く語り継がれる存在
山口百恵は国宝である。 勿論ですね。
引退後の話題や懐かしいVTRは必ず見逃さず、歌とドラマと映画は繰り返し聴いても見ても飽きる事は絶対ない。むしろ、もっともっと惹きこまれてしまうのは、彼女のとてつもない大きな魅力によるものでしょう。
自分にとっては女神様ですね。今のアイドルにはない貫禄があります。
山口百恵は国宝である。その通りです。
こちらの記事もおススメです!
⇒
山口百恵の複雑な生い立ち
百恵伝説をつくってしまって今でもカリスマ性があるのは 良い歌と映画に恵まれたこともありますが 興味をそそる生い立ちと、暗いとは別の意味の、秘めた魅力のある顔立ちとオーラです。
それとあれだけスポットライトを浴びていた人気絶頂の時に潔く引退して二度と戻られないのもカッコ良すぎて今でも求め続けられている理由です。
スポットライトを浴びた快感を第一線で捨てて戻ってこない人は 後にも先にも百恵さんだけです。
芸能界に入ったのもアイドルになりたいとかではなく、お金を稼ぎたかったから・・。
親を楽させてあげたい・・
そんな思いで受けたオーディションに合格し芸能界に入ったというのですから。
とにかくお金を稼ぎ貯めること。
引退の理由は結婚もそうかもしれませんが、百恵さんは目標を達成したのだと思います。
ラストソングでマイクをステージに置いてからは、芸能界に復帰する事無く、ご家庭を支えていますね。
未練がましく芸能界に復帰したり、チャラチャラとテレビに出たりしないところが
好感をもたれているのだと思うのであります。
こちらの記事もおススメです!
⇒
山口百恵の複雑な生い立ち
スポンサーリンク